93歳の母がTAVI治療を受けた件

私の家族やこれに関わったひとたちがこれを読んだら不愉快に思うだろうなと思いながら書いている。しかし、赤の他人についてだと、このようなことは書けない。

93歳になる母が、経カテーテル的大動脈弁置換術(TAVI)を受けた2か月後、10月初旬に台所で転倒して、肋骨骨折・脾臓損傷を起こして、入院した。腹腔内にわずかだがフリーエアもあったらしい。市内の病院を救急受診し、一旦帰されたが、CTで脾臓がおかしいからと再度呼び出され、なんと隣の県にある(偶然にも私の息子が働いている)大学病院の分院に転送された。行き先が孫の勤めている病院だとわかって、救急車の中でしきりに孫の名前を言っていたらしい。

母は一人暮らしで隣近所のひと達や、父が死んでから付き合い始めた母よりかなり若い男性なんかに世話になりながら暮らしていた。以前父が開業していた医院の2階部分が住居になっていて、この家の階段の昇降や数百メートル離れたスーパーマーケットへの買い物は出来ていた。スーパーの買い物に何回か付き合ったことがあるが、途中、1回くらい立ち止まって、少し休んでから歩くという感じだった。息が切れるのだということだったが、それほど呼吸が促迫するような感じではなかった。93歳としてはそこそこ良い方なのではないかと思っていた。

その母が8月の初めにTAVI治療を受けた。上述の息切れが母には不満だった。かかりつけの医師の一人に相談したところ、循環器内科の若い医師にまわされ、そこで狭心症と診断され、さらに、心臓の専門病院にまわされた。本人と、付き添った姉のはなしでは、冠動脈の石灰化が激しいからという説明だったらしい。

心臓の専門病院では冠動脈よりも大動脈弁の石灰化が激しくて、大動脈弁狭窄の方がメインの病態だということになった。体質もあるだろうが、ほとんどのカロリーを甘いもので摂取するような生活をしていれば、全身の血管・動脈が動脈硬化・石灰化を起こすのも当然だと思うが、そんな健康についてのリテラシーをいまさら93歳に求めてもムリだろう。ということで、すぐにTAVIをしましょうというはなしになったらしい。本人も付き添った姉も治療方針について全く疑うことなく、次の段階に突き進んでいった。

大動脈弁狭窄症(AS)の心不全と言えば治療が難しい、患者にとっても結構つらい病態である。軽症であっても明らかな心不全があって、ASが確認できれば、専門医に紹介する。何回か母と近所を歩いた経験から、狭心症の診断よりはこっちの方がそれっぽい診断かなとは思ったが、専門医でさえ狭心痛とも息切れとも判断しづらいような微妙な症状で、そこまで重症なの?という心の中のわだかまりを抱えた。

もう一度書いてしまうが、自宅の階段を上り下り出来て、近所に買い物に行ける。運動不足の93歳の母が途中1回くらいの短時間の休みで歩き続けられるというのは、上等な部類だ。両足にむくみはあったが、朝には消えているということだった。私の外来に来る高齢者と比べても結構優秀なほうだ。心不全の症状と言われれば、そうかもしれないが。

一応、姉にはそこまで必要なのかなと弱々しく聞いてみたが、専門家の言うことなんだから従うしかないじゃないかと一蹴されて終わった。遠いところから母の緊急入院や通院のたびに駆けつける姉には感謝しかない。不安がる母親には電話越しに「大丈夫だよ」としか言えなかった。あんたはトシなんだから、こんな治療は必要ないんじゃないの、なんて言えない。

ということで、8月初旬に母はTAVIを受けた。数日で退院する予定だった。しかし、その後、大動脈の一部に解離が起きたとのことで、一度ICUに戻され、結局、入院期間が3週間に伸びた。全身の動脈が石灰化しているような超高齢者では、ある程度想定される範囲内の合併症だろう。病院側も大して慌てることもなく、淡々とこなしていった印象である。

安静期間が少し長引いただけだったが、退院後はかなり全身の筋力が落ちていた。退院後、入浴させに行ったときは、浴槽から出られず、なんとか引きずり出した。しゃがんだ時に立ち上がることが出来なくなっていた。翌週には姉が来るし、それまでイノラス飲んで、スクワット運動して、立ち上がることが出来るようになってねと言って、帰ってしまった。そのときにきちんと対策をしていればよかったのだ。週1回のデイケアと毎日の宅食便、隣近所の御好意でどうにかなると考えてしまったのがダメだった。

それから1か月ほど、母は2階だけで生活していた。イノラスも飲まなかったし、運動もしなかった。誰かが持ってきてくれる食事を食べ、横になっていることが多くなっていたようだ。93歳の老人だ。意欲も低下するのだろう。10月初旬に受傷するまでのあいだにもう一度母を訪ねているが、その時も自力で立てないようだった。それを隠すような素振りだったので、それを良いことに、母と食事だけして帰ってきた。食欲だけは落ちていなかった。

そして、冒頭に書いたように、10月初旬に室内で転んで受傷した。この時も姉に、このままそっと安静にしておくだけっていうのはダメだろうかと、一回だけ言ってみたが、そんなことできるわけない、今は、担当する医者たちの言うとおりに動くしかない、今は考えるときではない、という厳しい反応がかえってきた。片道2時間くらいかけて駆けつけて、これから長い時間救急車に乗らなければいけない姉に対して発するべき言葉ではないことはわかっていた。

大学病院では、着いてすぐに脾動脈の塞栓術が行われ、外傷ケアユニットに入院になった。翌日には上部内視鏡検査も行われ、何回かCT検査も行われた。入院中、MRSA菌血症を起こして、2週間程度抗MRSA薬の点滴が続けられた。そして、血液培養陰性が確認され、母の希望する病院に転院になった。

12月現在、母は、かかりつけにしている病院に入院していて、そこでリハビリを続けている。この病院も急性期病院なのに長く入院させてもらっていて、非常に申し訳ない。まだつかまり歩きだが、母は自宅退院を目指している。しかし、これ以上隣近所の世話になるのはもう無理だ。これまで付き合ってきた男性ももうムリだと言ってきた。姉も私も、施設入所を考えているが、本人をどう説得しようか、見当もついていない。

母に掛かった医療費について考えてみる。ネットで見つけた情報によると(合併症のない)TAVIの一般的な入院で560万円だという。その前の外来検査などは含まれていないとのこと。母の場合、最初の入院だけで一千万円近い医療費がかかっているだろう。そして、2回目の入院も同程度の医療費がかかっているものと思われる。個人負担は微々たるものだが、これまでの数か月で軽く一千万円を超える医療費がかかっている。まだ、入院が継続されているので、これからも母にかかる医療費が膨らんでいく。

うちの病院で一千万円稼ぐことを考えてみよう。うちの病院では、患者が1か月入院しても50万円をすこし超える程度だ。急性期疾患で1~3週間入院しても10万円から30万円程度だ。看護師たちが一生懸命ケアをしてこの値段だ。同じ額の病院収入を得るのに、何十人も入院させなければならないという計算になる。こんな病院では、どんなに人手がかかっていようが医療費は安く抑えられている。値上げもされない。母に施された“華やかな医療行為”と限られた国の医療費のパイを奪い合っているのかと考えると、母が憎らしく思えてしまう。

結果として(まだ最終的な結果は出ていないが)、自宅でギリギリの一人暮らしをしていた93歳の高齢者に対してとんでもない高額な医療費をつぎ込んだ挙句、自立困難な老人を作り上げてしまった。

母が最初に相談したかかりつけのドクターは、母のバックグラウンドを知っているので、適当にあしらうわけにはいかない。丁寧に扱ってくれた結果なのだろう。最初に診た循環器内科のドクターにも何の落ち度もない。また、TAVIをやる専門病院であれば、比較的元気な高齢者で適度なASを診たら、TAVIを是非やりましょうという流れにしかならないだろう。93歳という年齢は、彼らにとって何の障害にもならない。かえってチャレンジ精神に火をつけただけだっただろう。今の医療システムで、これがダメだとは言えない。彼らも病院が赤字にならないように必死に戦っている。また、転倒して脾臓を損傷したときにも、高齢なので、もう、そっと様子を見ましょうとは救急病院で言いにくい。治療した大学病院も最善を尽くすのが基本だ。そのときどきで誰も悪くはないように思える。

しかし、母や姉、私を含めてみんな善良だが、みんな少しずつ悪い、と思う。これは、結果が出てしまってから言っている、後出しじゃんけんのようなはなしで、すべてがうまくいっていれば、母も前のように一人暮らしが出来ていたわけで、このようなことを考えることもなかったかもしれない。TAVIと言われたときの軽い違和感もすぐに忘れていただろう。それでも思ってしまうのは、これだけのリスクがあるのだから、年寄りなのだから、と、どこかの段階で思い留まっていても良かったのではないかということだ。

高齢者の医療を制限しましょう、というはなしではない。そっちに話を持っていきたくはない。しかし、関東地方など、どんな医療でも選択できてしまうような地域では特に考えてほしい。高齢者に良かれと思って医療を行うことによってその生活を奪ってしまうリスク、国の医療費という限られたパイをこういうことで消耗してしまう理不尽さ。

「老人」の仲間入り

今年度、帯状疱疹の予防接種の対象年齢になっていて、春にその連絡のハガキが届いていた。自分の勤めている病院でやろうと思ったが、うちの病院の事務担当者が問診表を自分で取り寄せてくれというのでしばらく保留にしていた。

ということで、人間ドックを受けた帰りに、住所地の区役所に問診票をもらいに行った。区役所の人はとても親切で、ほかにも予防接種できるものの問診表をセットで持っていけと言ってくれた。1か月後に65歳になるというと、65歳になってから受けてね、と親切に教えてくれた。

インフルエンザ、コロナの問診表をもらってきた。肺炎球菌も対象年齢になるが、細菌感染は基本的に体力・免疫力の低下した人が二次感染で罹るものだし、抗生剤でどうにかなるし、ニューモバックスの莢膜糖鎖抗原単体というのも気に入らないので、これはもらわなかった。

しかし、肺炎球菌を含め、出てくる問診表の題名がすべて「高齢者XXX予診票」となっているのだ。「高齢者」「高齢者」「高齢者」と何度も念を押された感じだ。区役所職員の優しさも「高齢者」に対するやさしさだったかと勘繰ってしまう。

そして、今週末、家に帰ると、介護保険被保険者証が届いていた。これで完全に老人の仲間入りだ。

何事にも若いつもりで行動してしまう。これで悪いことはないと思うが、客観的な現実として「老人」の仲間入りをしたという事実を認識していくことも必要なのかもしれない。

牛田享宏著「『痛み』とは何か」を読んだ。

「痛み」に対する真摯な思いと著者の良心が感じられる。一般内科医だけでなく多くの医師・医療関係者が読むべき本だと思う。

呼吸器内科医をしていたころは、あまり「痛み」と向き合うことがなかった。それよりも呼吸器内科医にとっては「息苦しさ」の方が対峙すべき苦痛だった。呼吸器内科医が出会う「痛み」は、胸膜炎なんかの胸膜の痛み、肺癌が転移したときの癌性疼痛(私自身は肺癌の患者さんをあまり診なかったので、このような患者さんをそれほど多く診ていなかった)くらいで、あまり痛みのバリエーションが多くなかった。

ところが一般内科医になった途端に痛みを訴える患者ばかりになってしまった。そのなかで、脳梗塞後遺症の患者さんの麻痺側の下肢痛に抗うつ薬サインバルタ(デュロキセチン、この本のなかにも記載がある)を処方したり、消化器の検査をいろいろやっても原因のつかめない胃痛に対してドグマチールスルピリド、これも精神科系のくすり。抗ドーパミン薬)を消化器内科の先生の真似をして処方してみたりして、それなりに効果を確認していたので、「痛み」がふつうに思いつく「痛み」だけでないことは、ここ数年の一般内科診療で理解できるようになっていた。

そのようななかで、「痛み」についてきちんと(そして簡単に)教えてくれるような本を探していた。以前には、慢性疼痛に対するガイドラインなんかも買ってみたものの、あまり読む気になるような代物ではなかった。そんななかで、出会ったのがこの本だ。最初はあまり期待していなかった。しばらくは「積ん読」だった。

以下は備忘録:

25ページに記載されている日本疼痛学会による「『痛み』の定義」(そのまま転記する。):
「実際の組織損傷もしくは組織損傷が起こりうる状態に付随する、あるいはそれに似た、感覚かつ情動の不快な体験」
1.    痛みは常に個人的な経験であり、生物学的、心理的、社会的要因によって様々な程度で影響を受けます。
2.    痛みと侵害受容は異なる現象です。感覚ニューロンの活動だけから痛みの存在を推測することはできません。
3.    個人は人生の経験を通じて、痛みの概念を学びます。
4.    痛みを経験しているという人の訴えは重んじられるべきです。
5.    痛みは、通常、適応的な役割を果たしますが、その一方で、身体機能や社会的および心理的な健康に悪影響を及ぼすこともあります。
6.    言葉による表出は、痛みを表すいくつかの行動の一つにすぎません。コミュニケーションが不可能であることは、ヒトあるいはヒト以外の動物が痛みを経験している可能性を否定するものではありません。

この定義は、私にとって想定外で画期的なものだった。こんなにもいっぱいの文章を使わなければ痛みが定義できないのだ。たぶん、これも絶対的な定義ではなくて、また、変わっている可能性のあるものなのだろう。「痛み」ってこんなにもあいまいで哲学的な色をもった概念なのだ。

「痛み」はおおまかに3種類の痛みに分類される
①    侵害受容性疼痛
②    神経障害性疼痛
③    痛覚変調性疼痛

(基本的にロキソニンなどのNSAIDsは炎症が起きている侵害受容疼痛にしか効かないはず?)

侵害受容性疼痛のうち、髄鞘のないC-fiberによって伝わる疼痛刺激は、逆行性の伝導(中枢側から逆戻りの伝導)も引き起こし、神経終末からサブスタンスPやCGRPなどの炎症性の神経ペプチドを放出し、局所の慢性炎症・慢性疼痛を引き起こすとともに、大脳辺縁系にも作用し、「不安」などの情動をつかさどる脳の領域に作用する。その中でも大脳辺縁系の一部の偏桃体は、痛みと恐怖の記憶形成に関わっている。痛みと情動が結び付く。情動を伴った痛みの記憶にもなる

からだを動かさないでいると痛みが増強する。

変形性膝関節症の存在=疼痛ではない。椎間板ヘルニア=疼痛ではない。それらの異常があっても、疼痛がない人もいる。

痛みに対する「レジリエンス」を持つこと。PTSDを例に挙げて、それらになりにくい「レジリエンス」を得る方法を説明していた。ある種の痛みはPTSDみたいなものかもしれない。であれば、いまPTSDに対する効果の治験を行っているらしいくすりが、将来「痛み」に対する治療薬になっているかもしれない。

運動し、筋肉を鍛えることで、痛みに強い体をつくる。

この本では治療薬や治療法の紹介もしていたが、多くの場合、この症状にはこれという決定的な治療法っていうのがないのではないか。この本の説に従えば、侵害受容性疼痛がその後の痛覚変調性疼痛に変質してくるかもしれないし、神経障害性疼痛や痛覚変調性疼痛で「痛み」によって炎症が起きて、侵害受容性疼痛を起こしてくるかもしれないということだ。

出先の東京で床屋に行った件

出かけた先の東京で、床屋に行ってきた。ネットで「東京駅周辺」「床屋」で検索して、一番上に表示された「ヤエチカ」の地下2階の床屋にちょうど都合の良い時間に予約をいれておいて、行った。

とてもキレ味のよさそうなハサミで「ザクッザクッ」と髪の毛を一気に切っていって、あっけなく切り終えてしまった。一旦切り終えた後で、もうすこしもみあげあたりを短めにと一度頼んだらうまく全体をまとめて、これもあっという間に終わった。

そのあとは(久しぶりの)前屈みになって洗髪、眉毛をすこし整えてくれて、髭を剃り、ちょっと強めの肩もみ。日頃行っている理容室は眉毛とか髭とかしないので、これが新鮮で、とても気持ちよかった。

いつも行っている床屋が嫌いなわけではない。髪の毛を切るときの「シャキッ、シャキッ」ていう音も心地よいし、何を言わなくてもわかってくれている。

今回は、前に床屋に行ってから2か月以上経っているし、数人のスタッフからそろそろ床屋に行けと言われていた。しかし、今週末は93歳で一人暮らしの母親の入浴介助に行かなければならないし、そのあと、日曜日には東京にいなければならない用事もあった。今週末はいつもの床屋にいけないのだ。(ついでに東京近郊にいる息子に晩飯を誘ったが、フラれてしまっていた)。ということで、思いついたのが「東京で床屋」というアイデアだった。

これまでも東京に行くことは、まああったが、いつもやることがほとんどなくて、東京駅近くの丸善に一日中いるなんていう時間の潰し方だった。

これからはときどき「東京で床屋」をしよう、と思ったというはなし。

資本主義社会の中の医療

斎藤幸平『人新世の「資本論」』の読後感想の第2弾。

彼はこの本のなかで、資本主義では利潤を追求し続けることが目的化されていて、そのなかで企業は常に「グローバルサウス」「労働者」から搾取し続けることを必要とし、「オートメーション化」によって生産性を上げ、また金銭的価値をもたらす「希少性」を創出していくものだと言っている。

このままでは、搾取の対象のひとつである地球がもたないから、「脱成長コミュニズム」を目指そう。国家・大企業が行うのは、収奪と負荷をさらに外部に押し付けようとする問題解決の先送り・矛盾のよそへの転嫁なので、労働者自らが「コミュニティー」「アソシエーション」をつくって、生産手段と生活を取り戻そう、という主旨だったように思う。

この本のなかで医療は:
「ケア労働は、ひとりの労働者が扱う対象人数を2倍3倍にしていくという形で生産性を上昇させることができない。ケアやコミュニケーションは時間をかける必要がある。そしてなによりサービスの受給者がスピードアップを望んでいない。」

「もちろん介護や看護の過程を徹底的にパターン化し、効率を上げることはある程度可能だ。だが儲け(=「価値」)のために労働生産性を過度に追及するなら、最終的にはサービスの質(=「使用価値」)そのものが低下してしまう。」

「ところが、まさに機械化の困難さのせいで労働集約的なケア労働部門は生産性が「低く」高コストだとみなされている。そのため官僚から現場に近いところまで含めたマネジメント層からは無理な効率化が求められたり、理不尽な改革やコストカットが断行されるようになったりしているのである」

我々が資本主義経済の中で搾取される労働者として扱われている。そして解決策として、「労働者」が団結して、「コミュニティー」として組織を運営していくようになるべきだと述べている。

 

しかし、この本の著者は、介護・医療の業界がいびつな社会構造のなかにあることをあまり理解していないのではないかと思う。一言でいうと、医療の「労働者」が草の根運動のように「コミュニティー」として病院を運営するのはかなり難しい。

 

以下にこれまでこの業界でありきたりに語られてきたことを述べる。

日本の医療は基本的にフリーアクセスだ。開業医は最近予約制をとっているところも増えてきたが、基本的に開業時間内であればいつでも受診できる。うちのような地方の公的病院は予約も基本的に不要だ。大病院でさえも(最近は直接受診すると余計に料金を取られたりするが)基本的にアクセスは自由だ。救急車に乗っていけば、待ち時間ゼロで診てもらえる。

資本主義社会において「希少性」は企業にとって利潤をあげるための武器になるものであり、企業の戦略によって作り上げるものであるが、日本の医療システムにおいては、希少性は作り出してはいけないものになっている。そこに患者がいたらそれを診なければいけないという基本原則がある。

価格も国によって定められている。経験豊かな名医が診ようが、きのう大学を卒業したばかりの研修医が診ようが、保険点数は同じだ。外科の手術なんて、やるひとによって全然違うはずなのに、これも統一価格だ。二重の意味で医療は「希少性」をはく奪されている。

手段をオートメーション化して大量生産して大きな利益を得る(生産性を上げる)こともできない。診療・ケアを単純化して効率を上げ、多くの患者を診ることによって利益を増やすことがもとめられているが、看護師や医師が過重労働をしている割に利益は上がらない。

医療の世界では労働に対してはたいして支払われない。例えば、入院基本料というのがこの労働に対する対価の一部なのだろうが、我々の病院のような大した病気じゃないけど手間がとんでもなくかかる高齢者ばかり扱っている病院の入院基本料はとても安く設定されている。なかで働いている人たちは重労働を強いられているが、企業(病院)はたいして儲からない。

高騰する医療費の大半は、薬代や材料費に消えていく。そのなかで国は医療費の伸びを高齢者の増加の範囲内に抑えようとしているらしい。これでは人件費にしわ寄せがくるのが目に見えている。最近は、個々人の給与を増やす方向に少しだけ傾いているが(それも全然不十分だが)、過重労働を減らす方向にはなかなか働かない。看護師不足が叫ばれているが、看護職員の定員を増やしてゆとりのある職場にすることができれば、看護師は集まってくる。介護職やリハ、事務職員の数も増やせれば随分違う職場になるだろうが、それはなかなかできない。公立病院では定員が決まっていて、それを変えることはなかなか難しい。「全部適用」になって人事権が管理者のものになったとしてもあまり変わらない。収益を上げることについては、地方自治体の首長よりも病院管理者の方が強く意識せざるを得ない。

医療は資本主義とは別の経済システムで動いているが、その周りの製薬会社や医療機器メーカー、医療ソフトウエアメーカーは資本主義経済の中で動いている。医療は全体で見れば収益が増大してきている分野であり、そこから利益を得ようと考えるのは、資本主義社会の中では当然の行為なのだろう。「希少性」を作り出し、そこから利益を得ている。我々は少なくともひとの病気や体力の低下を診て、ケアして、そこから収入を得ているという一種の「倫理観」がある。保険点数でも縛られている。彼らにはそのような「倫理観」は存在しない。単純に高い収益を上げることを目指している。医療を食い物にしていると言ってよい。

この本には関係ないけど、病院がものを買うときには消費税がついていて、病院が支払われる医療費には消費税がかからない。病院が損をするように出来ている。保険点数も含めて、国が政策として医療業界というグローバルサウスを作り出している。

 

はなしは変わるが、うちの病院は、毎年6億円強の医業収益があり、町からの繰入金が3億円強ある。純粋な一般会計からの繰入金はそれほど多くなかった(考え方にもよるが)。最小規模の病院でこの程度の予算で動いている。一昨年度、コロナの補助金が入ってきたときに少しだけ黒字になったが、それ以外はここのところ赤字が続いている。町の予算でどうにかなる程度の赤字でまだ収まっていると言うべきか。いずれにせよ、町が助けてくれなければ成り立たない。町も病院に関連した(国からの)地方交付税がなければやっていけない。

医療法人や個人経営の病院はどうしているのだろう。地方交付税に相当するものはあるのだろうか。彼らが生き延びてきたのは、安価だけど良い医療を提供してきたからだと思う。何とか利益を出すためには、さらに支出(=医療の質)を下げて耐え忍ぶしかないだろう。それでもだめなときは倒産するしか道はない。

全国の病院の調査で、2024年度、日本の病院の約69%が医業赤字経営に陥っており、経常赤字病院は約61.2%に達しているらしい。これは、前年度より悪化していて、今年度さらに悪化すると言われている。このままでは、倒産する病院がでてくるらしい。

国は案外、これを狙っているのかもしれない。文句を言う病院経営者が倒産によっていなくなれば、地方交付税補助金で医療をコントロールしやすくなる。

しかし、それも限度がある。町が持ちこたえられなくなれば、町もろとも病院も壊れていく。「コモン」が消滅する。

「労働集約的なケア労働部門は生産性が「低く」高コストだとみなされている。そのため官僚から現場に近いところまで含めたマネジメント層からは無理な効率化が求められたり、理不尽な改革やコストカットが断行される」。再度この本のこの部分を引用する。

昨年度、少しだけ人件費アップに点数が付いた。官僚は少しやりすぎたと感じたのかもしれない。しかし、官僚も含めてみんなの意識の中に「介護・医療は(自分たちの事務仕事に比べて)生産性が低く、(すでに十分)高コスト」だという考えがあるのではないか。コロナ禍のあいだ医療関係者は「エッセンシャルワーカー」として持ち上げられていたが、そんなことは過去のはなしだ。安くて当たり前なのだ。

この本のなかで「医療」は「コモン」として社会が共有すべきもののひとつだと言っているが、それが日本人のこころの奥底にある。今の日本人にとって医療は、水や空気、道路と同じように当然あるべきものであり、もともととても安いものなのだ。

そのような状況の中で、今の医療を続けることができるのだろうか。次の世代に今の医療を残すことができるのだろうか。望ましい社会変革が起きるまでの間、医療はもつのだろうか。

 

『人新世の「資本論」』は、かなり重い読み物だった、というのが、この本を読んだ感想。

次はなるべく軽めのことを書こう。