週末は自宅に帰るという生活

月曜日の早朝、街中をクルマで通ると、少し大きめの荷物を抱えた通勤スタイルの男性とその妻らしき女性の組み合わせが地下鉄駅のほうに向かって歩くのを何組か見かける。手をつないでいたり、女性の方が小型犬を抱っこしていたり、いろいろなパターンがあるが、独特の雰囲気がある。これって単身赴任の人たちなんだろうなぁ、と想像してしまう。

5月の半ばから、自分も63歳にして、この単身赴任生活をすることになった。月曜日の朝に家を出て、その日から4泊セカンドハウスで過ごして、金曜日に自宅に帰る。自らこの生活を選択したところが、月曜日の朝に街で見かけた(ほとんどの)単身赴任生活者と異なる点。

セカンドハウスから勤務先の病院まではクルマで数分。5分とかからない。近くに住んでいるナースが、出勤の途中に信号もないし、ノンストップだと言っていた。その通りだが、一旦国道に出るから、一時停止する可能性は高いだろう。

いわゆる単身赴任生活が始まったばかりで、まだ、その良し悪しを述べられるものでもないと思うが、ここ1か月の感想を書いておこうと思う。

ひとつめ。自炊生活が楽しい。朝は、目が覚めたら最初にお湯を沸かす。コーヒーを淹れて飲みながら、サラダを作り、パンをトーストし、オムレツを作り、と順番に作りながら食べていく。食べ終わって、時間があれば目の前のグラウンドの周りを数百メートル軽く走って、シャワーを浴びて、そのあと出勤に備える。夜は、自宅に帰った後、炊飯器のスイッチを入れて、また走りに出かける。1時間弱走って帰ってきて、ワインを飲みながら、おかずを一品作る。そして、食べながら、もう一品。今度はワインのつまみにもなりそうなものを冷蔵庫から取り出す。そして読書などして早々に寝てしまう。次の日の朝は、遠距離通勤していた頃よりも朝早く目が覚める。それも爽快に。

ふたつめ。週末の家族とのコミュニケーションが増えた。
週末、どのような食生活をしていたか妻に報告すると、いろいろ批評され、月曜日の朝には、使えそうな食材が詰め込まれたバッグが渡される。神経をすり減らす片道1時間の毎日の通勤がなくなった分、週末もすこし余裕ができた。これまでは、妻と娘が週末買い物に出かけるのについて行くことはなかったが、これについていくようになった。妻がゴルフで出かけているときは、娘とふたりで出かけることもある。いまのところ、まだ、二人から迷惑がられてはいないと思う。「単身赴任生活」で家族との関係がすこし良くなったような気がする。

ホタルに似た甲虫

今朝、網戸にとまっていた甲虫。庭にまわって写真に撮った。もっといい写真を撮ろうと思ったが、すぐに飛んで行ってしまった。

ホタル?

ネットで調べたが、ゲンジでもヘイケでもなさそう。ホタルでもないのか?

 

いなかは面白い。

 

完全に医療関係のブログではなくなってしまった。

はじめての草刈り

家(セカンドハウス)の周りには遮るものが何もないので、午前4時ごろから周りが明るくなってくる。6時前に起きて、草刈りをした。

5月の初旬に土地の前のオーナーさんが草刈りをしてくれていたが、1か月でかなり伸びてきたので、おニューのマキタの草刈り機をおろした。

5月のプロの草刈りあとの写真と比べると刈り方が虎刈りで全体的に刈り込みがあまい。

5月。プロの草刈りのあと。

6月13日。今朝の草刈りのあと。写真ではどこを草刈りしたか分かりにくい。我が家の裏に広がる広大な土地のうちの、草刈りをした我が家から数メートル以内が我が家の敷地。


10分~20分の作業だったが、そのあと両手が震えて、コーヒーもまともに淹れられない。箸で食べ物がつかめない。午前中は仕事にも影響が出そうだ。採血が困難な患者の動脈血採血を看護師から指示されているが、うまくできるか?

ほぼ毎日ジョギングしているが、上半身は全く鍛えていなかった。

公立病院の経営形態についての考察

4月から人事異動で新しい事務長に代わった。5月も末になろうとしているのに、一度も新事務長と会議をしていない。診療報酬改定と介護報酬改定が6月にあり、また、地域の中核的な病院との交渉ごとがあるし、介護施設との連携もより緊密に行うことが求められているのに、すべて人任せになっている。多分、何が進んでいるのかも理解していない。世話になっている地域の中核的病院のトップが新任のあいさつに来た時も姿を見せなかった。何とか取り繕ったが、本来であれば当院の新任の事務長がこちらからあいさつに行くべきであろう。毎朝、事務長の机のすぐ近くを通っても挨拶もしないし、事務能力以前に人間として如何なものかというレベルだ。

これから大学の医局等へ出向かなければいけない事案もあるし、これでこの病院はやっていけるのだろうか?自分と次長以下の事務職員でこれから数年にわたってやっていけるのだろうか?突発的な事案に(実質的に)事務長なしで対処していかなければならないのだろうか?

だれの責任とは言えないが、多分、過疎の進む町の小さな町立病院ではこのような人事は日常茶飯事なのだろう。しかし、これだけで、病院の経営は非常に危機的な状況に陥る。

「公立病院改革プラン」の作成の指針を示した「持続可能な地域医療提供体制を確保するための公立病院経営強化ガイドライン」で、「経営形態の見直し」についてかなりの行数を割いて記載しているのは、もちろん、経営の効率化を推し進めるという意味が一番であろうが、無能な事務部門を切り離して専門的な知識を有する事務部門の設置を推進する必要性を国が理解しているからだろう。

しかし・・・。 怒りに任せて書いてしまった。後で削除するかも。

 

 

前に所属していた病院の会合で、その病院の事務長やその他の事務職員とはなしをする機会があったが、いまどき、町の課長職に病院の事務長が務まるわけないと一笑に付されてしまった。うちの病院の収支報告を見てくれていたようで(病院経営強化プランを病院ホームページ上で公開している)、給与比率が高い(余分にひとを雇っているというのではなく、収益が少ない)と指摘された。とれる点数をとっていないとの指摘だ。

こちらも、他の病院と比較して、とれるものがないか探しているが、石橋をたたいてもなかなか渡ろうとしない医事担当業者と素人の町職員、そして、コミュニケーションのとれない事務長では、収入を上げろというのが無理というものだ。

中小の公立病院で収益が悪いのは、このあたりが問題なのだ。病院経営以前の問題なのだ。

これからこの問題を解決する方法を探していく。

60過ぎの勤務医が田舎町にセカンドハウスを建てた。

セカンドハウスができて、これまで3回ほど泊まった。ワンルームの小さな家で、すべてが近くにあり、快適だ。なによりも通勤のストレスがほとんどない。炊事道具がまだ揃っていないので、まだ自炊生活は開始できていない。長期間の本格的なセカンドハウス生活には至っていない。

家を建て始めてからは早かった。家を建てている最中、忙しくてなかなか見に行けなかったが、見に行ったら、建て主の名前等の表示された看板がしっかり設置されていて、周りの人たちはみんなこの家が誰の家か分かっていた。建て主がほとんど現場に行っていないのに、いろいろな人たちが建築現場を見に行っていたようだった。

向かいの町営グラウンドの草刈りをしているOMさんが、外来の患者で、家を建てている間からなにかと気にかけてくれていた。先日帰り際にセカンドハウスに立ち寄ったら、家の周りの草刈りがされていた。マキタの草刈り機をアマゾンで注文していたのに、せっかくの草刈り機デビューはお預けになった。OMさんがやってくれたのかと思い、挨拶に行ったら、それはOKさん(土地の売主さん)だ、とのこと。年寄りの病院長が来て、家を建てて、一人で住み始めた、ということで、周りの人たちが皆気にかけてくれている。

実際、セカンドハウスが出来てしまって、一番当惑しているのが、自分自身。妻や娘との関係。いつも晩飯の時間には間に合わないものの、家に帰って食事をしていた。妻・娘との濃厚だったとは言えない関係が、さらに希薄になってしまわないか、心配になっている。いまのところ、セカンドハウスで何が足りないというと、ふたりとも一生懸命考えてくれる。グズグズと生活道具を揃えないで家に帰る生活をしているこちらの気持ちとは裏腹に家族も地元の人たちも皆この生活を支えてくれようとしている。切ない。大学生になって親元を出たときや留学中・留学後単身で生活したときには感じなかった切なさだ。

いまさらだけど、コロナに罹ったこと

3月初旬にコロナに罹患した。まったくの言い訳でしかないが、この時期のコロナ株JN.1は以前よりさらに感染性が増していたようだ。

コロナの最前線で働いている医療関係者が多く感染し、初期には亡くなる医療関係者も外国では多かった。自分も初期からコロナ診療に携わってきたが、幸いにしてそれほど壊滅的な環境で働くことはなく、自分が感染することは全く想定していなかった。自分自身の感染対策は間違いがないという確信があった。しかし、有名な忽那先生もコロナに罹っていたようだし、絶対ということはないのだ。

その日の夕方からノドの右側だけ何かイガイガするなあと思っていたら、翌日からその症状が増悪。咳も続けて出るようになった。体がすこしだけ火照るような感じがしたが、熱はなかった。初日に抗原検査して陰性だったので油断していたが、1日弱経ってから病院の自分の部屋に戻って抗原検査したら、すぐにくっきりと二本線が現れた。

ノドの症状が出る直前にコロナの入院患者の部屋でマスクをずらして鼻を搔いてしまったことが原因かと思ったが、ちょっと症状が出るには早いし、外来で何人かの咳の患者の診察をしていて、最近も目の前でFeNO測定手技をやらせている。その辺の可能性の方が高いか。

当日は自分の部屋で事務的な作業をしてから帰った。そのあと病院の規則(自分で決めたのだが)で1週間、自宅隔離となった。去年妻子がコロナになったときと同様、空き家になっている妻の実家の建物での生活になったが、妻が頻繁に食事を持ってきてくれるので、食事の心配はあまりなかったが、3月になったのに寒い日が続き、雪も連日のように降っていたので、夜の寒さがこたえた。

診断当日からゾコーバをのんだが、2~3日は頭が重く、全身がだるい感じが続いた。高熱は出なかったが、インフルエンザに似た症状だと思った。また、痰が絡まって出ない感じと発作性の咳嗽が出現した。多くのコロナ後遺症の患者が言っていた症状がこれだなと実感した。全身の倦怠感が和らいだ後は、積極的に運動するようにしていた。平日のほぼ誰もいない森林公園を走るのは爽快だったし、もしかしたら運動でコロナの炎症が早めに収まってくれるのではないかという考え、こんなことで体力低下させてられないという思いもあった。

痰の絡まる感じは、食後に悪化して、運動で軽減した。気道よりも上部食道に粘液が溜まっていて、運動によってそれが移動するのかもしれない。これは、人それぞれだろう。1週間して、隔離先から自宅に戻ったときにメトホルミンがあったので数日内服していたが、その間はすこし良かったような気がした。のむのをやめた後、痰詰まり症状は増悪して、10日間くらい常に咳払いをしているような感じになった。意を決してメトホルミン内服を再開した。もともとヘモグロビンA1c値が少し高めだったし、しばらく続けるつもりで処方してもらった。これまでメトホルミンを処方したコロナ後遺症の患者のうち何人かは、飲み始めてすぐに楽になったと言っていたが、自分の場合はそのようなことは起きなかった。しかし、飲み始めて3~4日した頃に痰のボリュームと硬さが減っていることに気付いた。咳払いも常にしている感じではなくなっていた。1週間後には使用するティッシュペーパーの量も格段に減っていたし、夜も楽に眠れるようになっていた。

1か月経った今も症状はすこしある。たまに発作性に咳が出ることもまだある。黄砂の刺激か、花粉症か、外にいるとノドに痰が詰まってくる感じが戻ってくる。コロナ後、過敏性が亢進しているのだろう。

60過ぎの勤務医が田舎町にセカンドハウスを建てる。(3) 農地法第5条、廃棄物処理法第16条など

農地法第5条
農地を農地以外のものにするため又は採草放牧地を採草放牧地以外のもの(中略)にするため、これらの土地について第三条第一項本文に掲げる権利を設定し、又は移転する場合には、政令で定めるところにより、当事者が都道府県知事の許可(中略)を受けなければならない。

農地は原則的に購入できない。農地を農地として買う場合であっても、経験のある農家でなければ買うことはできない。この農地法のことを最初から知っていれば、以下に書くことは最初から予測できていた。「農地に家を建てることはできるか?」で検索すると複数のサイトがヒットするが、それを総合すると以下のような流れが想像できる。まずは調べておくべきであった。

話を元に戻す。農家でない人は農地を買うことはできない。ここでこの契約が白紙に戻されるのかと覚悟した。ところが、農地を購入する場合、500平方メートルまでなら、農地に付属する宅地として農地の転用が認められるという抜け道(としか言いようがない)があるということで、その手続きに入るという。畑に行くための6メートル幅の通路を残して、道路に面した土地500平方メートル弱(150坪)の土地を分筆する。そして、その値段を再度決めなおして(とんでもなく割高な土地になってしまったが)、再契約をすることになった。

このあと、農地から宅地への転用の手続きが開始されることになる。土地の分筆とその登記、隣家の承諾書の取得、農業委員会へ提出する書類の作成と提出などがあり、農業委員会で認められたあとに、最終的な売買成立になる。これが、遅々として進まず、半年以上待たされた。建築資材の値段が高騰してきているなかで建築業者も早く工事を開始したいし、妻もせっつくし、毎月不動産会社に進捗状況の確認の電話をするという今までにない経験をした。

普通の土地の売買よりもかなり大変な手続きであることは事実だが、隣家の承諾書の取得に1か月以上かかっているし、時間がかかった一番の原因は不動産会社と行政書士のトラブルとのことだった。しかし、それは、こちらのあずかり知らぬことだ。そして、最後には3日後の農業委員会に提出するためとのことで貯金通帳の残高のページのコピーまで提出させられた。(あとから建築業者に聞くと、全国展開するこの不動産業者さんは他の不動産業者が手を出さないような微妙な土地の売買を多く扱い、対応も少し怪しいのだということだった。まあ、この業者さんがいなければ、始まらなかった話だし、よしとすべきかもしれない。)

まだ、続く。時間がかかったので、最終的な売買が完了する前に地盤調査を開始していいよってことになった。ここからまた一波乱(最後の一波乱であってほしい)。こちらの建築業者が地盤調査をすると、地中になにか「ガラ」がいっぱい埋まっているらしい。これではその上に建物が立てられないとのことだ。そして、掘り起こしてみると白線の入ったアスファルト片等が出てきた。明らかに産業廃棄物である。こちらとしてはアスファルト片が埋まっていようがきちんとした家が建てられれば良いが、これで余計な費用が掛かるのは勘弁してほしい。今度はしっかりとネットで学習してから対策を立ててから臨むことにした。

農地に廃棄物を埋めるのは、上の農地法のほか廃棄物処理法にも違反する。そのような行為を行ったものは、それを撤去しなければならない。この時点で農地の転用は認められており、農地法は適用されないかもしれないが、明らかに違法投棄である。土地は20~30年前に売主さんが誰かから譲渡されたもののようで、売主さんは知らなかったようだが、責任は売主さんにある。そこで、まず、このことに係る余計な費用を払うつもりはない、場合によっては土地売買は不成立になると建築業者と不動産業者に対して宣言し、対処してもらうことにした(こういうところにセカンドハウスの気軽さが出る。本チャンの自宅建設だったらこうはならないか?)。彼らと何度も連絡を取って、最終的に、埋まっているものをすべて撤去するのではなく、建物を建てるときにかかる余計な費用を売主さんに負担していただくことで話がついた。1年以上かかって、予定から半年以上が経過してから、土地の売買が完了した。

しかし、あとから考えれば、一年以内とか、建築計画とかは、農地転用のプロセスで求められる条件だったのだ。業者は最初から知っていたとしか思えない。何だったのだろう、この1年以上の苦労・苦痛は。ただの土地売買のはなしなのに。